
しまざき 圭介
- 誕生日
- 1971年6月18日
- 血液型
- B型
- 星 座
- ふたご座
- 資 格
- 高校1種公民科教職免許
高校1種保健体育科教職免許
普通及び大型自動車免許・小型船舶免許4級
SAJ基礎スキー1級・日本漢字能力検定準2級 - 趣 味
- 読書・テレビ鑑賞・造園
- 特 技
- 野球・スキー・スポーツ全般
- 好きな食べ物
- ラーメン他麺類全般・ホルモン・焼き鳥
- 愛読書
- 野球・スポーツ全般・政治経済
- 尊敬する人
- 元ヤクルトスワローズ 若松勉 氏(北海高校・電電北海道の先輩)
衆議院議員 馳浩 氏(高校教師・プロレスラー・大学指導者) - 座右の銘
- 姿即心 凡時徹底 義を見てせざるは勇なきなり
[ご挨拶]
私、しまざき圭介 がいつも心にある気持ちを調べてみました。「義を見てせざるは勇なきなり」という言葉が当てはまるようです。
この言葉は
(人として当然行うべきことと知りながら,それを実行しないのは勇気がないからである)と言う意味です。
育てて頂いた街、きたひろしま。
もっと魅力あふれる街にできる。
もっともっと住みよい街にできる可能性がある街です。
きたひろしまで育ったからこそ、気付き、取り組める事が私にはあります。
[略歴]
- 昭和59年3月
- 広島町(現北広島市)立若葉小学校(双葉小学校)卒業
- 昭和62年3月
- 広島町(現北広島市)立広葉中学校 卒業
- 平成2年3月
- 北海高等学校 卒業
- 平成2年4月
- 北海学園大学経済学部 2部経済学科 入学
- 平成6年3月
- 北海学園大学経済学部 2部経済学科 卒業
- 平成6年4月
- 日本電信電話株式会社(NTT)入社
(札幌支店配属)社会人野球選手活動。
引退後は、総務・企画・営業職として勤務 - 平成9年4月
- 北海学園大学経済学部 科目等履修生 入学
- 平成11年3月
- 北海学園大学経済学部 科目等履修生 修了
(高校1種公民科免許取得) - 平成11年4月
- 北海道教育大学札幌校
教育学部保健体育学科 科目等履修生 入学 - 平成14年1月
- 東日本電信電話株式会社(NTT東日本)退社
- 平成14年2月
- 札幌日本大学高等学校 入職
保健体育科教諭・野球部監督として勤務 - 平成14年10月
- 北海道教育大学札幌校
教育学部保健体育学科 科目等履修生 修了
(高校1種保健体育科免許取得) - 平成24年6月
- 札幌日本大学高等学校 退職
- 平成24年7月
- 医療法人社団 管理職入職
北海学園大学 硬式野球部コーチに就任 - 平成27年4月
- 「北広島市議会議員」初当選 第三位の得票
市民の皆様から1,421票の御信託をいただく。
自民党北広島支部 幹事長に就任。国政選挙他、各級選挙にて活動。 - 平成31年4月
- 「北広島市議会議員」2期目の当選 第三位の得票
市民の皆様から1,332票の御信託をいただく。
2つの保守系会派を、1つの会派に統合することに尽力。
最大会派を設立し、会派(自由クラブ)幹事長に就任。
北広島市議会 「建設文教常任委員長」「議会広報編集委員長」に就任。 - 令和元年10月
- 北海学園大学体育会硬式野球部 第13代監督に就任
- 令和3年5月
- 北広島市議会 「議会運営委員長」 に就任。
- 令和4年6月
- 北海学園大学硬式野球部監督として、全日本大学野球選手権大会
(神宮球場・東京ドーム)に出場 - 「その他役職」
- 北海学園大学 体育会硬式野球部 監督 (2019年10月~)
札幌学生野球連盟 常任理事
北広島市軟式野球連盟 理事
日本リトルリーグ協会北海道連盟 理事
北海高等学校PTA会長 (2020年7月~)
北海校 校友会北広島支部 副幹事長
株式会社北海道クローザー 代表取締役
自由民主党 北広島支部副支部長
[しまざき圭介 物語]
1971年(昭和46年)6月18日 札幌市白石区菊水にて誕生
3歳の時に札幌郡広島町(現・北広島市)に移住
- 幼少期「広島町若葉幼稚園」
-
39度の熱でも「絶対に休まない。皆勤賞をもらう」と言い幼稚園に行った。
今考えても、迷惑な人である。2年間を皆勤賞で過ごす。
- 小学時代「広島町立若葉小学校(現・双葉小学校)」
-
1年生から毎日毎日、友人や上級生と南公園で野球をするようになる。
グランドの取り合いになり、上級生とつかみあいの喧嘩になる事も。
早い物順で使う慣習であったが、あとから来た上級生が使おうとした事に異議を申立てた。
当然、生意気だと、小突かれ揉める事になる。
3年生から、広島サッカー少年団に入団。
しかし、目的は4年生から入団できるカープジュニアまでの体力づくりと自らで決めていた。
4年生になり退団する時に、自宅に少年団コーチが引き留めに来たが、目的を言いはっきりと断った。祖母が聞いていて驚いていたようである。
そして、自らの野球の原点となる少年野球チームへ入団をする。
4年生から待ちに待った、若葉カープジュニアに入団。
4年生から少しずつ試合で使ってもらえるようになり、5年生でレギュラー。
6年生時は、主将で3番・三塁手兼投手。肩はこの頃からめっぽう強かったが、コントロールが悪くチームメイトには随分と迷惑をかけた。
6年生時は、山手カープジュニア主体の選抜チームに選ばれ、札幌の大会にも出場した。
小体連の陸上競技・走り幅跳びにて広島町内で、5年生も6年生も2位となる。
冬は小体連のスケート大会に学校代表としても出場。
夜間練習で、恵庭や千歳のリンクに行ったが、「邪魔だ、どけ!」と言われるぐらい周囲の人は速かった。
卒業式前日、体育館で親友と悪ふざけしているうちに、緞帳を破ってしまう。翌日の卒業式後に二人でしこたま叱られた事も・・・。
そんな中、町内会の子供会会長の職も。夏休みはラジオ体操のラジオとハンコの準備に忙しかった。
夏祭りやクリスマス会の買い出しに、今は無い「ショッパーズヒロ」「青葉ショッピング」に買い出しをよくした。
小学校6年間も皆勤賞。
- 中学時代「広島町立広葉中学校」
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野球部に入部・1年生春からベンチ入り。3年生時は主将で3番・遊撃手兼投手。
中体連の陸上競技・走り幅跳びにて5位となる。野球の練習後、一度帰宅した後、陸上の砂場に戻って練習をしていた。3年生の大会前に太腿を肉離れ。通院しながら自己流で包帯をグルグル巻いて野球の試合に出た。
生徒会では委員長も経験。進路に悩む日々を過ごす。
中学校3年間も皆勤賞。義務教育を完璧に修了したと自負している。
- 高校時代「北海高等学校」
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入部した野球部は、1年生を含めて120人。
レベルの高さと人数の多さと上級生のプレッシャーにと生きた心地がしない数か月を過ごす。
1年生時は、帰宅が23時半頃。15分で食事と風呂を終わらせ、倒れるようにベッドに入った。
翌朝は、朝練の為6時前に自宅を出て、北広島駅を6時過ぎの汽車に乗った。
足りない睡眠は、「時々」昼間に取った・・・。 3年生が引退後の、1年生夏、新チーム緒戦のvs東海大四とのダブルヘッダー2試合目。いきなり先発を言い渡されるも、初回5失点。
しかし、少し気持ちを取り戻し、7回まで投げ初回の5失点だけで終わる。
試合後、恩師・大西監督に「後半良く投げた」と一言を頂き、なんとかやっていけるのかなと言う自信につながった。
この大西先生の一言が忘れられず、将来はプロ、ダメなら社会人野球選手。そして指導者になってみたいと言う気持ちを強く抱く。
1年生の秋は地区大会から登板。先輩たちの健闘で全道大会にて準優勝。選抜甲子園切符を手にする。背番号⑩。しかし、明日が甲子園練習と言う日の前日。送球がアゴを直撃し、複雑骨折、即入院・手術。
代わりに登録された投手の先輩は、とても面倒を見て頂いた方。
甲子園出場メダルを私に「これはお前の努力で掴んだもので、俺の物じゃない。だからお前に返す」と言われたあの日の事は、一生忘れないと思う。
しかし私も「いえ、それは先輩の物ですから受け取れません」と押し問答。
同級生からの甲子園の土も受け取らなかった。
3年生夏に甲子園に出場、登板する。その秋の北海道開催・はまなす国体にも出場。
東京の大学で野球を続けたかったが、大学受験は数校不合格になる。
3年生の後半は気持ちも落ち込んで、せっかくの野球部引退後を楽しめなかった。
とどめは、12月24日に最後に受けていた体育大学の不合格通知が届く。
最高のクリスマスプレゼントであった。
直後、勉強に専念して系列の北海学園大学の受験を決意。1か月半しかない受験勉強の始まりであった。2月の試験を受け、3月晴れて合格(恐らくギリギリで)。
当時は朝刊紙面に合格発表氏名が掲載。新聞配達員が投函すると同時に抜き取り、自分の名前を見つけ出し、朝の5時に叫んだ。親が驚いて起きてきた。
高校時代は、精勤賞。
- 大学時代「北海学園大学」
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1年生時からリーグ戦で登板。2年生時に全日本大学選手権出場、登板する。
リーグ優勝2回。ほか各賞を多数頂く。
野球での一番の思い出は、2年時の道都大との神宮出場を賭けた優勝決定戦(旭川スタルヒン球場)の9回裏。リードされた場面で二死2塁。当然投手には代打である。監督が代打を告げようとベンチを出た横を通り過ぎ、勝手に打席に立つ。センター前に同点タイムリー打。送球の間に二塁を獲る。
直後、1番打者の4年生がレフト線にヒットしサヨナラのホームを踏み、神宮出場を決めたシーンである。
試合後、監督に笑顔でヒジ鉄を食らう。
練習と大学講義の合間で、様々なアルバイトも経験。
夜中の地下街の電灯交換、雪祭りの芸能人のガード、市場でのひたすらキャベツの荷卸し、セブンイレブン、スキーインストラクター、催事の展示、カラオケボックスetc。
当時、大学生の時給は520円だった。
講義の単位は、意外と順調に取得。良い友人に恵まれたと実感している。
4年生時10月、プロ2球団からの調査書が届き提出も指名されず、内定していた社会人野球の道へ進む事となる。
- 社会人野球時代「NTT北海道(現・NTT東日本―北海道)」
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社会人野球選手として3年間を過ごし、都市対抗野球大会に出場し、登板する。
1年目はフル回転で登板も、オフに持病の腰痛が悪化。大学3年時以来、2度目の手術となる。
社会人入社当時は心の中で「2年でオサラバ、プロよ」と思っていたが、3年で自分がオサラバとなった。
25歳で退部。同時に小さい頃から目標にしていた、プロ野球選手への夢をあきらめる瞬間となった。
小学校4年生から野球を始め、社会人野球を引退する10月まで1日も欠かさず「腕立て伏せ」をして来たが、退部勧告の日静かに終了した。
その後社業に専念。総務・企画職を経て、不動産企画開発のグループ会社に出向。
そこで、不動産利活用に絡む広告営業の新規事業に着手し、成果を上げる。
社長賞を受賞ほか、グループ会社の新規事業開発全国大会(福岡県)でセールスアワード賞を受賞。
初めて働いて会社に貢献した実感を得た。
社業に専念するようになると同時期に、北海学園大学2部に通学(科目等履修生)、2年間で高校一種公民科免許を取得する。講義終了の21時後、会社に戻り業務をすることもあった。
会社と良き上司、先輩や仲間に本当に良くして頂いた。
引き続き、北海道教育大学札幌校に通学(科目等履修生)、高校一種保健体育免許を取得する。
会社の年次有給休暇を、全て大学の講義の為に当てた。
この頃、ご縁あって札幌日本大学高校野球部コーチに就任。土日祝と練習に出向く。
「教師として野球部を指導したい」と明確な将来の目標を定める。
- 教員時代「札幌日本大学高等学校 保健体育科教諭」
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保健体育教諭・野球部監督として勤務。平成14年の選抜甲子園大会に出場。
素質のある生徒に恵まれ、周囲の先生たちに迷惑もかけ、助けて頂いたことも多数。
10年間で5回の卒業担任を受け持ち、今でも教え子が遊びに訪れてくれる喜びを得る。
サッカー部の顧問、スキー部の大会時の引率も経験。生徒指導主任として時には厳しく生徒に接し、これで良いのかと日々苦悩と葛藤と、喜びのある充実した教員生活を経験した。全て教職員の仲間や生徒達のおかげである。
この頃ある議員の方から「引退するので後任で出馬しないか」とのお話を頂き、地方政治に対して興味を抱く。熟慮の末、時期尚早と丁重にお断りを申し上げた。
しかし沸々と、自分だったら何が出来るのかと、育てて頂いた町、北広島市について様々な事を調べ始める。書籍代がすごかった。凝り性である。
また政治や自治体・条令の専門書を読み漁り、次第に「教育」「スポーツ」「医療制度」について自分が関わった経験からの、未来への理念や理想を思い描くようになる。
- パラレルキャリアとして
「北広島市議会議員」 「北海学園大学 体育会硬式野球部監督」 として -
光栄にも管理職の職責を頂きながら、母校大学硬式野球部のコーチとして活動。
医療従事者として広くスポーツ選手に関わる仕事と、大学指導をしながら高校野球のスカウティングで、北海道中を行脚する日々を過ごす。高校監督時代から良くして頂いている各高校の先生には、いつもお世話になり感謝する日々。
3年越しで学ぶ事を切望していた、「自民党道連 政治塾5期生」に合格し入塾。
入塾を後押しをしてくれたのは、隣の東部小・中学校では野球を、北海高校からはクラスメイトとなり、野球部と陸上ホッケー部でお互い頑張ったK・K。通学も一緒。
彼の店で二人で飲みながら、大好きな北広島の事を語り明かし、「北広島で一緒になにかやろう」と誓い合っていたのだが。
2013年秋、不慮の事故により親友を失う。彼が託してくれた目標に向かいたいと、立起する。
1年間、国会議員・地方議員・ジャーナリスト・各種専門家の講義を受け、塾生との討議など充実した時間を過ごすが、改めて自らの知識の無さに愕然としながらも、今後政治活動に取り組む上でのテーマとなる物を見つけ、現在も調査を進める。
最近は結婚適齢期の高校・大学の教え子たちが後を絶たず、同日に披露宴のハシゴをする事も。
これからもしばらくは続きそうである・・・。これが本当の嬉しい悲鳴。